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新作・旧作問わず最近観た映画についてぴーちくぱーちく言うブログ

この夏最大級の祭り「HiGH&LOW〜私による私のための雨宮兄弟編〜」

 

 「LUCIFER!吐き気がするほど愛してくれ!」

 

 お久しぶりです。HiGH&LOWについてのブログもこれで5つめとなりました。同じ作品でこれだけ記事を書くことは初めてなので自分でも驚いています。7月初頭の私に「お前、今月中旬に始まるEXILEがめっちゃ出てる映画に死ぬほどハマってアルバムの曲をヘビロてして二ヶ月後にはLIVEビューイングに行ってAKIRAかっこいい…とか呟いてるよ」と言っても相手にされないことでしょう。HiGH&LOWは最早テロリズムです。

 さらりと書きましたが先日HiGH&LOWのライブビューングに行って来ました。イケてるメンズたちが椀子蕎麦のように出てくるので頭がパニックになりました。みんなあまりに顔が綺麗だということしか理解できないまま「こんなの初めて…」と呟いてる間に4時間あっという間に過ぎていったのですが、それはTwitterでもしつこいくらい書いているのでここではこのくらいにしておきます。

 10月8日公開のTHE RED RAINまでもう一ヶ月を切りましたね。Twitterでは試写会で一足先に鑑賞した方々の感想が少しずつ目に入るようになってきましたが、今はあまり情報を入れないようにしています。それというのも、今回映画で主役になる雨宮兄弟について自分の中で整理がついていないからです。新しい情報で知っているのは「雨宮兄弟は広斗が連れ子で他の二人と血が繋がっていない」ということくらいです。

 ドラマ、映画と登場する時間は短いのにあまりにキャラが濃い雨宮兄弟。気になりながらも横目で見ているくらいの立ち位置だったのですが、そろそろ真剣に対峙を迫られているなと感じました。そっちがそうくるなら(?)正面から正々堂々ぶつかってやろうじゃないか…ということで今回は雨宮兄弟について書きたいと思います。

 雨宮兄弟について、と言っても世にあるような考察ではなくタイトルにあるように「私による私のための雨宮兄弟」の話をしようと思います。そうです妄想です。ここから先の話は全て私の願望が詰まった妄想になりますので、それをご了承の上お付き合い頂ける方はよろしくお願いします。

 

 「よくもまぁ群れやがって…」MUGENの倉庫にバイクでカチ込みに来た広斗が琥珀を始めとしたMUGENのメンバーを前にして口にするセリフである。草食動物の群れ、もしくは蟻の群れでも見るかのような蔑んだ目で揃いのベストを着た男たちを見る広斗。まるで自分は一人で生きているかのような口ぶりであるが、自身も雨宮兄弟の広斗として名前が広まるほどに兄である雅貴と行動を共にしている。ヘルメットには兄弟をイメージしたエンブレムが描かれているし、確かに二人では「群れ」とは違うかもしれないが、兄弟べったりというのも傍から見れば違和感があるだろう。

 広斗にとって「兄弟」の価値観は他の人のそれとは違うのではないか、上記した場面でそう感じたのが雨宮兄弟について考え始めたきっかけである。兄弟二人でいることは広斗にとっては「群れ」とは違う。二人でいることが当然、一人で問題を起こすことがあってもそれは最終的に二人で解決するべき問題になり、何事も共有する。蹴りの雅貴と拳の広斗、二人は正に一体の上半身と下半身のように切り離せない存在である。雅貴と広斗は血の繋がらない兄弟であるが、そんな二人が血よりも強い繋がりを持つようになったのは過去に何があったのか。広斗が連れ子として雨宮家にやって来た幼少期から考えてみようと思う。

 広斗が母親に連れられ雨宮家にやって来たのは小学校に上がったばかりの頃だった。「お父さんになる人」として母親の再婚相手とは何度か会ったことがあった。本当の父親は顔を見たこともないし名前も知らない。父親を知らず育った広斗は自分にも周りの子供と同じように父親が出来ることが素直に嬉しかった。だが兄が二人いることは雨宮家に来てから知らされた。長男の尊龍はもう中学生で家にはあまり帰らないという。次男の雅貴は小学校高学年で年が近い。初めて二人と会った広斗は「お兄ちゃんができて良かったね」と言う母親の後ろに隠れて二人の顔もまともに見れなかった。

 尊龍と雅貴は父親の影響で幼いころから道場へ通い格闘技をしていた。特に長男の尊龍は中学生にして既に国双地区ではその腕っ節の強さで名前を知られており、次男の雅貴も空手の大会で常に上位に入る実力を周囲から認められていた。その二人と比べ、広斗は今まで格闘技どころか習い事一つしたとこがなかった。幼いながらも一芸に優れた新しい兄たちにコンプレックスを抱いた広斗は家で居場所がないと思った。

 雨宮兄弟は尊龍と雅貴で完璧であり、自分は邪魔者だ。そう思った広斗は家でもなるべく二人に顔を合わせないように過ごそうとしていたが、そんな広斗に笑顔で手を差し伸べてきたのは雅貴だった。「広斗ってかっこ良い名前だよね、俺ずっと弟が欲しいと思ってたんだ」一緒に遊ぼう、そう誘われ二人で庭でサッカーボールを蹴った。雨宮兄弟の末弟としての広斗はその日から始まった。

 雅貴と同じ小学校に通い始めると、急にできた雨宮弟に周囲は興味津々であった。特に「弟も強いのか」というのが関心の中心だった。あの雨宮の弟なのだから同じように強いに違いない、周囲はそう思ったが勿論実際は違った。また、ムードメーカーで周囲の注目を集める雅貴と違い、広斗は自分からは発言もしないタイプである。そのことで広斗はさっそく学校でからかわれ始めた。「雨宮弟の弱い方」などと呼ばれからかわれる広斗を助けるのはいつも雅貴だった。「俺の弟に手出したら蹴り飛ばしてやるからな!」広斗を庇うようにそう啖呵を切る雅貴に逆らえるのは同じ学校には誰もいなかったが、いつも守られてばかりの自分が情けなくていつの間にか雅貴と距離を置くようになっていった。

 学校でもなるべく雅貴を避けるようにしていた広斗が一人家の近くでサッカーボールを蹴っていると、そこに空手着を持った雅貴が通りかかる。雅貴は意を決したように広斗の手を取って歩き出し、連れて行かれたのは雅貴が通っている道場だった。「誰かを倒すためじゃなくて、守るために強くなればいいんだよ」その言葉に広斗は雅貴の強さの本質を知った。そして自分も同じように強くなって、いつか今まで守ってきてくれた雅貴を守れるようになりたいと思った。

 中学に上がる頃には「最強の雨宮兄弟」の呼び声が高くなっていた。思春期になり雅貴に彼女ができるようになると「雅貴くん弟いたんだ、似てないね」など言われることもあったがその度に雅貴は広斗の肩を組んで「似てないってよく言われる。広斗はクール系でかっこいいでしょ、自慢の弟なんだ」と笑った。雅貴が「俺の弟」と自分のことを呼ぶ度に広斗は自分の存在が認められるようで嬉しかった。

 「守るため」に柔道や空手などの格闘技に情熱を燃やしていた二人に決定的な事件が起きたのは広斗が中学二年の年だった。いつものようにバイクの免許をとった雅貴の後ろに広斗が乗って道場へ向かっていたときだった。尊龍の知り合いだというチンピラが喧嘩をふっかけてきた。相手が何人いても二人いれば負けるはずがなかったが、喧嘩を買おうとする広斗を雅貴が止めた。広斗はもうすぐ道場と部活の両方で大会を控えている。ここで喧嘩をしたことがバレたら出場停止だ。

 広斗に下がっているように伝えた雅貴が一人で数人に向かって行くのを広斗は見ていることしか出来なかった。助けを呼ぶ、雅貴にそう声をかけて駆け出そうとした瞬間、相手の男がどこからか持ち出した鉄パイプで雅貴の頭を殴った。鈍い音と共に倒れる雅貴と頭から流れる血、それが目に入った瞬間広斗の中で何かが切れた。

 その後自分がどう暴れたのかは覚えていないが、気づいた頃には喧嘩を売ってきたチンピラ全員が足下に転がっていて、二人とも病院に運ばれた。治療が終わると広斗はそのまま警察に呼ばれることになった。留置所で一晩過ごした広斗を迎えに来たのは久しぶりに顔を見る尊龍だった。尊龍は喧嘩の件については何も言わなかった。雅貴の口から部活を辞めさせられ、二人揃って道場を破門になったことを聞かされたが、広斗は後悔していなかった。自分は強くなった本来の目的である「雅貴を守る」ために闘った。それが招いた結果ならそれでよかった。

 部活も道場も辞めた広斗は16歳になるとすぐにバイクの免許を取り一人で走り回るようになった。毎日新しい傷をつけて帰って来る広斗を心配した雅貴は、広斗をこうしたのは自分だという責任感から広斗の無鉄砲な生活に付き合うようになった。

 広斗にとって「群れ」はかつて自分を迫害してきた者たちであり、だから自分は一人で生きていくんだという気持ちが強い。だが兄弟だけは違っていて、広斗にとって尊龍と雅貴はそこにいて当たり前の存在。特に雅貴は自分の半身とも言える存在であり、逆に離れるということが考えられない。だから広斗はいかにも「一人で生きている」という顔して雨宮兄弟のエンブレムを掲げるという矛盾を矛盾と思わない。

 今の広斗を作り上げたのは尊龍と雅貴の二人の兄であり、雨宮の名前がなければ今の広斗はいなかったとも言える。以上が私の考える雨宮兄弟である。

 

 お付き合いありがとうございました。相変わらず駆け足になりましたが、簡単に言いたいことは詰め込めたかと思います。痛いだろ、これ全部妄想なんだぜ?

 私の今の一番の関心は雨宮兄弟が一体どうやって生活しているのかということです。一つの情報によると両親を早くに亡くした雨宮兄弟は貧しい生活をしていたとのことですが、今の兄弟は一つのパーツを取っても何十万という改造バイクを乗り回し、ジバンシィとサンローランの70万するライダースジャケットを着て、スモーキーにぽんと札束を渡せる生活をしていることになります。雨宮兄弟に何が起きたの?パトロンでもいるの?叶姉妹なの?

 映画の公開日には休みをとったので初日に鑑賞しまた感想を書ければいいなと思っております。HiGH&LOWは他にもまだまだ掘り下げ甲斐のあるキャラクター、設定が多くあるのでまたネタが見つかり次第ブログでお会いしましょう。それでは。 

 

この夏最大級の祭り「HiGH&LOW〜不良ファンタジーと隣合う現実〜」

 

 皆さんこんにちは、お久しぶりです。ハイロー充してますか?

 私と言えば、先週やっと汐留のHiGH&LOW BASEとかいう聖地を一人で訪れまして、そこで購入したMUGENのエンブレム入りTシャツを部屋着にして過ごす日々です。ついに私もMUGENを背負う女になりました。仲間を見捨てねぇ。

 HiGH&LOWについてのブログ記事もこれで第四弾となりました。第一弾は初回鑑賞時の私のテンション、第二回は龍也と琥珀、九十九の関係性。第三弾は番外編として九十九の歌うMariaについて。そして今回はちょっと話を戻してHiGH&LOWの世界の構造について、と言うと大袈裟ですが、そういうテーマで私が普段から寝る前にぼうっと考えていたことを書きたいと思います。

 最終的には今回も琥珀と九十九の話になることを最初に断っておきます。HiGH&LOWは琥珀に始まり、琥珀と九十九に終わる。そういう解釈の人間が書いていることだと思ってご容赦下さい。

 

 HiGH&LOWという作品は、ジャンルとしては古くから漫画や映画でも親しまれている「不良ファンタジー」ものである。この世界には基本的に「不良」と「その延長線上のやくざ」を主軸に世界が回っている。それ以外の一般人は主人公たちの身近な人物以外は徹底的にモブでしかない。

 HiGH&LOWで不良ファンタジーの世界観を構成する主な面子は「一人のカリスマに集う有象無象(MUGEN)」「過剰な地元愛を持つ自警団(山王連合会)」「繁華街の取り締まり役(ラスカルズ)」「偏差値よりも喧嘩の強さを重視する高校(鬼邪高校)」「保守的で一歩引いた立場(RUDEBOYS)」「やくざ崩れ(達磨一家)」「誰もがその強さを認める最強キャラ(雨宮兄弟)」である。

 要素だけを取り出すと不良ものではよく見かける要素で構成されているのが分かる。そして、今挙げたチームはあくまでも「不良ファンタジー」の中で成り立っているチームである。ではその「不良ファンタジー」とは何か。それは「大人になる前の青年」が「人の死に直結しない暴力」の中で生きる世界である。

 「不良ファンタジー」はあくまでもファンタジーなので、登場するキャラクターたちのリアルな生活背景などは最低限しか描かれない。どんな家庭で育ったのか、生活費はどうやって捻出しているのかなど、現実的な部分は大抵謎に包まれている。また、この世界ではどれだけ人を殴っても基本的に死ぬことはない。彼らが行うのは各々が持つ大切なものを守るための「喧嘩」であり、それは「暴力」とイコールではない。このファンタジー世界ではそれが最大の前提となっている。彼らは自らの肉体だけを使った殴り合いのみを正義としており、そこにナイフや銃などを持ち出すことはあってはならない。もし持ち出したのなら、それは彼らと生きる世界が違うという証明になる。

 不良ファンタジーに生きる彼らの拳は何かを「守る」ために振うものであって、誰かを傷つける、何かを「奪う」ための拳は悪である。それはドラマから徹底的に描かれている。シーズン1で達磨一家の日向が悪役のように登場したのは、その頃の日向が「喧嘩」ではなく「暴力」を行っていたからだ。

 そして、そんな彼らと敵対する「やくざ(九龍・家村会)」は正に不良ファンタジーの根底を揺るがす「大人」であり「殺し・暴力」の象徴である。両者は同じ作品内に登場しているが、生きている世界は全く違う。つまり、HiGH&LOWはファンタジー世界を破壊しようとしてくる大人たちから、自分たちの理想郷を守ろうとする青年たちの物語としても見ることができる。

 

 話を劇場版へと映して考えてみる。HiGH&LOWで最初に自分たちの揺るぎないファンタジー世界を作り上げたのは龍也と琥珀である。「この時を永遠のものに」という思いを込めて二人は二人だけで成立する世界、MUGENを作った。だが、彼らのファンタジーは「龍也の死」という目を背けることのできない圧倒的な現実の前に崩れ去ることになる。ファンタジーを生きる彼らのすぐ側で現実は口を開けて待っている。HiGH&LOWの世界ではファンタジーと現実は裏表ではなく横並びなのである。

 MUGENの消滅はファンタジーが現実に飲み込まれたということでもある。龍也はMUGENから抜けるという道を選んだことで自ら「大人」になった。そして九十九は生死の境を彷徨ったことで強制的に現実の世界へ引きずり込まれた。つまり、劇場版では三人の中で琥珀だけがファンタジーの世界に取り残された状態となった。

 皮肉にも、最初にファンタジー世界を作り上げた琥珀が劇場版では現実の力によってファンタジーを崩壊するべく乗り込んで来る悪役となる。だが、琥珀は現実に飲み込まれたわけではなく自分の作った世界と共に心中する覚悟を持っていた。自分から龍也を奪った現実の崩壊を見届けることができればそれで満足だと思っていた。九十九はその全てを知り、琥珀の命を守るというそれだけの目的で側にいることを決めた。

 琥珀は龍也とMUGENがまだ存在する世界に生きていたが、劇場版の最後でもう自分やMUGENは過去のものであるということに気づく。コブラやヤマトは自分たちで新たにファンタジー世界を生み出してそこで生きている。それでは自分がこれから生きていく場所はどこにあるのか。そんな琥珀に手を差し伸べたのは一足早く不良ファンタジーから足を洗った九十九だった。

 私は今回の劇場版は琥珀の視点から見るとファンタジーの世界から卒業することの難しさを描いたものだと思っている。だが、琥珀は一人ではない。九十九の手を取って立ち上がった琥珀は、スクリーンからフレームアウトし、その先に続く現実の世界をMUGENの琥珀としてではなく、三浦龍臣という一人の男として九十九と共に生きていくことになる。

 

 自己満足でしかない話にここまでお付き合い頂きありがとうございました。琥珀と九十九はあくまでもこの映画で卒業という形をとって、次回の映画には名前だけ出てくれば満足だと思っているのですが、実際どうなるか気になるところです。出て来るとしてもちゃんと大人になっていると信じています。

 

※最後に補足として。

 劇場版のエンドロールでは、山王連合会は現実世界の観客に背を向けて商店街へ帰って行き、ラスカルズやRUDEBOYS、達磨一家もそれぞれ自分たちが戻るべき場所へと戻っている。だが、唯一鬼邪高校の村山だけが看板を取り戻し喜んでいる仲間たちに背を向け、一人でこちら側へ歩いて来るという演出がされている。ストーリーの中でも何度か「卒業」という言葉を出していたが、それが遠くないということを示しているのか、気になるところであった。

 

この夏最大級の祭り「HiGH&LOW〜琥珀&九十九番外編:Maria徹底解剖〜」

 

 バイクも人間も換えはねぇ……命大事にしろよ」

 

 みなさん猛暑の中いかがお過ごしでしょうか。私と言えば時間の許す限り映画館に通いHiGH&LOWを観たり家でドラマを見返したり劇中曲をヘビロテして虚ろな目で口ずさんだりしております。

 今回も前回に引き続き琥珀と九十九について考えたいと思いますが、前回とは少し違う視点から考えます。みんな大好きなあの曲を私なりに深読み、歪曲しますのでどうぞお付き合いください。

 

 

 HiGH&LOWの魅力の一つがEXILEによるアガる劇中歌である。問答無用に耳から脳に直接注入される危ないお薬かなにかかってくらいアガる曲ばかりで本当に困っている。その中でも初めて聞いてから私の心を掴んで離さない一曲がある。そう、アルバムの最後に入っている曲であり、映画ではかからずドラマでも一度しか聞くことのできない伝説の曲、鷹村九十九役の青柳翔が歌う「Maria」だ。

 バラード調のため他の曲よりも耳につきにくいが、ドラマではかかる場面と相まって非常にエモーショナルでこちらの感情を揺さぶってくる。なぜこの曲がこんなにも聞く者の心を揺さぶるのかと言えば、それはこの曲が歌っている九十九の気持ちを劇中の本人よりも雄弁に語っているからに他ならない。それではこれからMariaの歌詞を細切れにしてこの曲がいかにヤバいブツであるか徹底的に解剖していこうと思う。

 

 

 タイトル:Maria

 歌:青柳翔(鷹村九十九:劇団EXILE

 

 「この胸の思いはいつも届かない

  溢れる思いはいつも踏みにじられ」

 (いつも言葉が足りない九十九らしい導入。九十九が言葉よりも先に拳を出してしまうのは過去に様々な悔しい思いをしてきたからか)

 

 「それでも生きていくことに精一杯

  誰にもわからない悲しみの叫びを……」

 (身寄りがなく、頼れるのは自分の力のみだった九十九の生き方を思うともうここで涙が禁じ得ない。誰にも理解されずたった一人で悲しみを抱え込みながら生きてきた)

 

 「夜の街歩けば暗闇に広がるカオス

  こんな世界に夢なんてあるのか」

 (夢も希望もない出口の見えない暗闇を歩き続けている九十九。このときはまだ自分の人生に光が差すなんて考えたこともなかっただろう)

 

 「声を枯らして足掻き続けた先になにがあるのだろう

  言葉にならないこの想いたちはどこへ消えていく」

 (もう涙で霞んで歌詞が読めない)

 

 「ここにいるよMaria教えてくれ 立ち止まることはできないから

  どこにいるのMaria教えてくれ 後戻りなんて今更できない」

 (Mariaーーー!!九十九のMariaはどこにいるんだーーー!!早く見つけてあげてーーー!!)

 

 ここまでが一番となる。天涯孤独な九十九がどういった思いを抱えて生きてきたのかがよく伝わってくる。この歌詞で分かるのは九十九が自分で孤独を選んで生きていたわけじゃないということだ。九十九は常に自分の理解者、または暗闇から抜け出すきっかけを探していた。その方法が分からず自棄になって暴力に訴えていただけで、彼がむやみやたらに振り回していた拳は言葉にならない言葉だったのかもしれない。

 

 「口元に灯す火が顔を照らせば

  白く浮かぶ煙は誰も消せない」

 (ここにきて「暗闇」と対になる「灯り」というワードの出現。九十九の心境に何らかの変化が伺える。煙草の煙のように九十九の中に揺らめくものが生まれた)

 

 「孤独の片隅優しさを感じるその時

  微かな不安がよぎってゆく」

 (あーーー!出会った!琥珀と出会った!!神田川かよ!?ただあなたの優しさだけが怖かったのかよ!?今まで感じたことのなかった優しさに触れてそれを失うことを考えて不安になっちゃのかよ!?罪深い!!)

 

 「どうして俺たちはこの宿命(さだめ)に導かれるのか

  いつから俺たちはこの痛み感じないふりしてる」

 (主語が「俺たち」になった……だと……)

 

 「苦しいよMaria答えてくれ いつかは報われるだろうか

  抱いてくれMariaこの心を ただお前だけを信じて生きてる」

 (Mariaーーーーーーー!!!!抱いてーーーーーーー!!!)

 

 これ以降の歌詞は繰り返しになるので省略する。一番と二番を比べると九十九の心境が一人の誰かとの出会いによって大きく変化しているのがよく分かる。最初はぼんやりとしていたMariaという存在。それが九十九の中ではっきりとした姿を持った。そう、琥珀である。

 一人で暗闇をさまよっていた九十九の前に琥珀が現れ、あっと言う間に九十九を闇から光の世界へと引き上げてしまった。生まれてこの方初めて自分に優しさをくれた存在、Maria、それは琥珀だった。

 だがここで全て解決とはならないのが長年の孤独が染み着いてしまった九十九のやっかいなところでもある。九十九にとって琥珀はただ一人の存在であるが、琥珀にとって自分は仲間の中の一人であって特別な存在ではない、だからその優しさに期待しすぎてはいけない。そう考えているのかもしれない。でもいつか報われたい。この気持ちが届けばいい。苦しい、苦しいよMaria、抱いてくれMaria、ただお前だけを信じていきてるんだMaria……。

 

 私はこの曲がiPodから流れてくる度に頭を抱えてその場から動けなる病気にかかってしまった。九十九が琥珀を思う気持ちが痛いほどに伝わってくる。これを歌っているのが九十九自身であるということ、青柳翔の演技中では想像もつかない甘い歌声と相まってもうどうにでもしてくれという気持ちになる。どうにでもしてくれMaria。

 

 それでは最後に、この曲を歌ってくれた青柳翔さん。そして作詞作曲をしたATUSHI(!?)に最大限の敬意を表してこの記事を終える。

 ATUSHIが作詞作曲ってマジかよ。こんな歌詞が書けるなんてただ者じゃねぇよ。ATUSHIこそ琥珀&九十九の最大手なんじゃないのか。ありがとうございます。新刊も楽しみにしてます。

 

 

この夏最大級の祭り「HiGH&LOW〜琥珀&九十九編〜」

 

「なんでなんだよ琥珀さん……!命大事にしろって言ったのあんたじゃねぇかよ!」

 

 HiGH&LOWの世界を語るのに無視できない男たちがいる。全ての始まりとなったMUGEN、その初期メンバーである琥珀と龍也、そして九十九だ。映画からこの世界に入った私にとって最初は「ラスト周辺で盛り下がるなあ……」としか思っていなかったこの三人のエピソード。あの頃の私はまだこの男たちが背負う業の深さを何一つ分かっていなかった。

 

 まずは「琥珀」という男について考えてみる。本名は「美浦龍臣」という。幼少期にいじめられていた所を龍也に助けられてから親友となったというエピソードがあるように、元々は気弱な部分もある少年だった。それがMUGENという大きなチームを率いるような男になったのは偏に龍也の存在があったからだ。喧嘩もバイクも、龍也に引っ張られるように始めた。中学の頃には体格も力も龍也を超えており、いつしか周囲は龍也よりも琥珀を恐れるようになっていたが、琥珀は常に龍也の後を追っていた。

 琥珀が仲間を大切にするのは龍也がそうしていたから。弱いものに手を差し伸べるは自分が龍也にそうしてもらったから。生まれながらに人を惹き付ける魅力を持ちカリスマ性があるのは龍也だった。琥珀は腕っ節の強さで人を支配することはできるが、人間としての器は決して大きくない。足りない部分は全て自然に龍也の真似をして補っていた。だが周囲には琥珀の方こそMUGENそのものに見えた。二人が並べば誰だって力を持っているのは琥珀の方だと思う。そしてそういった扱いを受け続けた結果、琥珀自身も「龍也の幼なじみの龍臣」ではなく「MUGENの琥珀」としての自分を強く意識して生きるようになっていった。

 龍也にとってMUGENは琥珀との遊びの延長のようなものだった。人数が増えても、誰かをリーダーとしないことで単なるバイク好きの集まりとしようとした。リーダーを作らないのは仲間を平等とすること以外に、厄介なトラブルを引き込まないようにする龍也の考えがあったからだ。だが琥珀を代表として血気盛んなメンバーは地元愛の強さと相まって何かとトラブルに巻き込まれては喧嘩をして敵を増やした。そこはヤンキーの習性だから仕方がない。MUGENが出来る前ならば個人のトラブルで済んだが、だんだんとそうも言っていられなくなってきた。龍也が潮時だと思ったのはその頃だったかもしれないが、それは琥珀にとっては逆だった。仲間がトラブルに巻き込まれるなら助けてやらなければいけない、MUGENの創設者として、それが筋ってものだ。MUGENは仲間を見捨てねぇ。仲間を思う気持ちは龍也も琥珀も同じだが、守るための方向性が変わってきてしまっていた。

 そんなすれ違いが続き、ついに龍也はMUGENを抜けるという大きな決断をする。龍也にとってMUGENはただの名前だったが、琥珀にとっては仲間そのものを表すものになっていた。「MUGENやめたってなにも変わらねぇよ」というのは龍也の本心だった。だから龍也はMUGENに変わるものを作ろうと「ITOKAN」を開く事に決めた。一斗缶のように温かい場所を作りたい(?)という気持ちを込めて。気の合う仲間が集まる場所があればそれはどこだっていい、名前が消えても自分たちが親友だという事実は消えない。龍也はそう考えていたが、琥珀はそうは思わなかった。琥珀は常に自分の前にいた龍也を失ってしまったと思った。そうして、もう龍也の真似ではなく自分なりの方法で仲間を守らなければいけないと自分自身で作り出した荷物を背負ってしまった。

 そうしてこの悲劇は琥珀の決断が招いた龍也の死という最悪の形で幕を下ろしてしまう。これが簡単であるが琥珀と龍也という二人の男の一つのエピソードである。この二人に大きく絡んでくるもう一人の男が、シーズン2でMUGENへの加入エピソードが語られる鷹村九十九だ。初めて映画で見たときは琥珀にとって九十九がどういった存在なのか全く分からなかった。回想シーンでなんとなく琥珀に恩義を感じているんだな、ということは分かったがドラマを見てからもう一度映画を見たらそんな単純なものではなかった。

 次は「鷹村九十九」または「九十九にとっての琥珀琥珀にとっての九十九」について考える。九十九は身寄りがなく一匹狼で誰彼構わず喧嘩を売っていたという設定になっている。趣味はナンパという点を深読みすると、自分の外見という長所を最大限に活かしてその日暮らしを支える女をとっかえひっかえしていた可能性がある。九十九は親からの愛を受けずに育った子供であり、親は死んだのではなくネグレクトのため行政の手によって引き離されたという個人的な設定をここでは当然として話を進める。九十九は「あんたなんて生まれてこなければよかった」と言われて育った。だから自分が誰かから愛されることはないと思っているし、愛を知らないから誰も愛さない。そんな男だった。

 だかそんな九十九の前に一人の男が現れる。それが琥珀だった。琥珀は九十九とは逆に親からの愛情や友からの友情など、人の情を受けて育っておりそれの大切さもよく知る男であった。琥珀は自分の情を誰かに向けることに抵抗がないどころか積極的だった。だから野良犬ではなく捨て犬のような九十九を見てすぐにこの男を救いたいと思ったのかもしれない。琥珀が九十九に向けた態度や言葉は恐らくかつて龍也から向けられたものだったのだろう。自分も龍也の様に誰かの力になれる、それを初めて誰かに対して実戦したのが九十九であり、実際めちゃくちゃ効果を発揮した。Mariaに例えられるくらい。

 Mariaに例えるのはやり過ぎだと思わなくもないが、実際バイク乗りが友人でもない赤の他人の治療費のために自分のバイクを売り払うというのは普通ではない。人の愛情を知らずに育った九十九にとってそれは人生で初めて確かに形を持って与えられた「情」だった。そう考えると九十九にとって琥珀が聖人のように見えたとしてもおかしくはない。その瞬間、琥珀は九十九にとってのMariaだった。

 琥珀を追いかけてMUGENに入った九十九は、そこで初めて自分の聖人にもまたそう思っている存在がいることを知る。琥珀をよく見ている九十九だからこそ、琥珀にとっての龍也がただの友人以上であることは間違いないと分かったはずだ。そして、龍也がMUGENを抜けると言い出したときの琥珀の失望と絶望も、龍也以上に理解した。だからこそ自分だけは何があっても側で琥珀を支えようと考えたはずだ。龍也から「お前は何があってもあいつの側にいてやってくれ」と言われたときは琥珀の脆さを理解しているのに何故龍也自身が側にいてやらないんだともどかしい思いもしただろう。

 九十九は龍也がMUGENを抜けると言い出したとき、一番琥珀のことを思っているのは自分であると思ったかもしれないが、それは龍也がふいに渡してきたバイクの鍵によって打ち砕かれる。自分の治療費のために琥珀が売ったバイクを散々探して買い戻していた龍也。そんなことをされたら、絶対に敵うはずがない。手の中に収まったバイクの鍵の重さに九十九は心底そう思った。そして追い打ちをかけるように九十九には絶対に向けない、龍也と写る写真と同じ笑顔で駆け寄ってくる琥珀。そのときの琥珀の表情を焼き付けたまま、九十九の瞼は閉ざされた。

 

 親友を失い、同じように大切な弟分のような存在も失うかもしれないという状況は琥珀の精神を崩壊させるには十分すぎた。自分には誰も守れない、仲間を持つような資格もない、そんな思いから琥珀はMUGENを解散し一人になる道を選んだ。もう自分のせいで誰かを不幸にしたくなかった。

 そんな極限の状況だったからこそ、李の言葉に浮かされて琥珀はあんな無茶な行動に出てしまったのだろう。そしてそんなドタバタした状況でどさくさに紛れるように目覚めた九十九は結構な長期間眠っていたにも関わらずリハビリを行う描写など一切なしに、初登場で達磨の右京の腕をへし折るというバケモノのような回復力を見せつける。九十九の辞書にブランクの文字はない。どうやら九十九は琥珀から詳細を聞かされていないようなので全くの盲目状態で琥珀に連れ添っていることになる。答えてやれMaria(琥珀)。

 最後の舞台、琥珀は九十九に殴り掛かる。「もう俺の邪魔するな」と言う琥珀は、最後は結果がどうであれ九十九を巻き込まず自分一人で終わらせたかったのかもしれない。病み上がりの九十九(全くそうは見えないが)に一発食らわせ、全て終わるまで気絶しててくれという思いがあったかもしれないが、九十九の強靭な肉体がそれを許さなかった。気絶するどころか拳を振り上げ向かって来る九十九。思わずぶん投げたらガラスを割って結構な高さから落ちてしまう九十九。だがそれでも気絶する気配すら見せない九十九。

 その後殴り合っている二人の間にかつての仲間であるコブラとヤマトが参戦。MUGENは仲間を見捨てねぇ!(二回目)目を覚ませよ琥珀さん!どうしちまったんだよ琥珀さん!と観客全員の気持ちをその拳に乗せて琥珀に殴り掛かる。一発殴る毎に入るのではないかと思うほどの数の回想を繰り返していくうちにかつての光を取り戻す琥珀の瞳。そして龍也の手から九十九、最終的に何故かコブラへ渡ったバイクの鍵がとうとう琥珀の手に渡る。その瞬間、膝から崩れ落ちる琥珀。やはり最後の最後で琥珀の心の扉を開けたのは龍也だった。ちょっと待って、ここまで献身的に連れ添ってきたのに最終的に殴られた九十九の気持ち考えたことある?

 色々と納得出来ない点はあったが、エンドロールで琥珀さんの隣に座り煙草を差し出す九十九と、九十九の手により腰を上げ再び歩き出す琥珀という二人が見れたのは大きかった。最後に九十九が琥珀の後ろを自ら選んで微笑みを浮かべる瞬間などは、思わずスクリーンが涙で霞んでしまう。

 映画で描かれる二人の姿はここまでだ。二人の今後の姿が次の劇場版またはドラマの続編で描かれるのか、それはHIROのみぞ知る。

 

 このような駄文にここまでお付き合い頂きありがとうございます。それでは最後に私が理想とする琥珀と九十九の今後の姿を置いて終えようと思います。

 

 

この夏最大級の祭り「HiGH&LOW」

 

 「HIROは言われた、光あれ。そうしてHiGH&LOWがあった」

 

 7月16日に全国公開されたHiGH&LOW THE MOVIEが今後の人生を狂わされるほどのアレだったのでちょっと語らせてほしい。

 そもそも私は映画を見るまでHiGH&LOWのドラマが存在していたことすら知らなかった。ではなぜ見に行ったかと言うと、新作映画はとりあえずチェックしておこうという軽い気持ちからだ。

 ぼーっと何も考えずチケットを買い、若い女性が多い客席を見回してなんとなく私は場違いだな……などと思いつつ席に着席。そして映画が始まったその瞬間、爆音で流れるEXILEの曲。合わせてスクリーンに映し出されるイケメンの満願全席に私は開始1分で確信した。「これはヤバい」この時既に私の語彙は失われていた。

 だいたいの世界観は立木のナレーションと長年の腐女子生活によって培われた行間を読む力で速攻理解できた。なるほど、そうか、この一帯は圧倒的な勢力を誇るMUGENの力によってかえって統率がとれていたのか……そしてそのMUGENが解散した後に新たに5つのチームが台頭を表してきたのか……それぞれのチームの頭文字を取ってそこはSWORD地区と呼ばれているのか……

 

・MUGEN

 幼なじみの二人がこのときを永遠にという思いを込めてMUGENと名付けたってお前それ……お前それ……!ダサいが一周半してやっぱりダサいじゃねえかお前……!えっ井浦新いるじゃんえっ死んだの!?新死んだから解散したの!?

 

・山王商店街二代目喧嘩屋「山王連合会」

 あっガンちゃんだ!私が唯一知ってる三代目JSBの踊る人だ!なるほどガンちゃんがいるってことはここが主人公だなよく分かるぞ。テニプリでいうところの青学だな。それにしてもガンちゃんめっちゃ肌綺麗だな。

 

・誘惑の白き悪魔「White Rascals

 白き悪魔て!ラスカルズて!あれっ待って遠藤雄弥いるじゃん!えんやー!やっぱりテニプリじゃん!そうするとここが氷帝だなめっちゃ分かるオタクには理解しやすい設定だな!でもこいつら良い年してなにやってんだ!

 

・漆黒の凶悪高校「鬼邪高校」

 おやこうこうて!笑わせる気か!立木の声でおやこうこうて!でも分かるぞクローズみたいな学校ってことだな。教師も授業も存在しない暴力だけが支配する高校ってやつだな。えっこの可愛い顔した人が番長なの!?やべー超二次元!!

 

・無慈悲な街の亡霊「RUDEBOYS」

 ここどこだよ!日本のどこだよ!っていうか日本なのかよ!?窪田くんじゃん!窪田くんとか出るのこの映画めっちゃ映画っぽくなってきたじゃん!パルクール超すげぇな!

 

・復讐の壊し屋一家「達磨一家」

 林遣都ーーーーー!?!?どうしちゃったの林遣都!!どんなイメチェンだよ!!戦闘服が赤い法被なのにその下がNYギャング風って情報量多すぎなんだけど!!あっ遠藤要もいる!安定感半端ねぇ!!

 

 オープニングだけでこの情報量。当然捌き切れるはずもなく、頭がぐらぐらする状態でストーリーが始まる。そう、この時点ではまだストーリーは始まってもいなかったのだ……

 ストーリーに関しては長くなるのでまた別に文章に起こそうと思う。ただ4回観た今でもあまり理解できてないし、4回目でも「なんでなんだよ琥珀さん!どうしちまったんだよ!」ってリアルに思えた。俺にはあんたが分かんねぇよ琥珀さん……俺たち仲間だったんじゃなかったのかよ……

 それはいいとして、私が言いたいのはHiGH&LOWがめちゃめちゃ優れた複合型エンターテイメントだってことだ。誰もが知っている通り、HiGH&LOWプロジェクトは今では泣く子も黙るほどの勢いがあるEXILEを主導としている。実力のある若手俳優を多く起用しているが、基本的には「こんなEXILEあんなEXILE見れたらいいな」という作品であることは間違いない。

 そして「こんなEXILEあんなEXILE」が「EXILEのめちゃくちゃかっこいい曲」に乗せて「EXILEとして鍛え上げた肉体とパフォーマンス力で半端ないアクションシーンを演じる」映画が完成している。

 これはどう考えても凄い。凄すぎる。LDHの財力と豊富な人材を十二分に発揮して狙い通り、もしくはそれ以上のことが出来ているのだから。

 もともとEXILEのファンである人が満足するのは勿論のこと「えぐざえる?えぐざいる?最近めっちゃ人増えたよねチューチュートレインとライジングサンしか分からないわ」みたいな私が観ても、映画が終わった瞬間にパンフレットと月刊EXILEとアルバムを買って毎日狂ったように曲をヘビロテする日々を送るような、そんな力を持った作品なのだ。

 この一ヶ月で私は「世界を創造したのはイエス・キリストかHIROか」レベルの信者と化してしまった。多分HIRO。

 

 刮目せよ、イケメンを更にイケメンに映す技術とアクションを!濃すぎるキャラクターたちを!それからえっと……イケメンを!HiGH&LOW最高!

 

イット・フォローズ/逃れられない”それ”の正体

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イット・フォローズ(It Follows)R15+

監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル

出演:マイカ・モンロー、ケール・ギルクリスト、ジェイク・ウェアリー

製作:アメリカ/2014

時間:100分

  昨年の年末にcocoの試写会に当選して松竹試写室にて鑑賞。まさか当たるとは。

 

【あらすじ】主人公が最近できた彼氏と初体験をしたら「ごめん、君に”それ”をうつした。姿形を変えてゆっくり追いかけてくる、つかまったら殺される、とにかく逃げろ」と言われます。そしたら本当に色んなきもい人の形をしたものが所構わず追いかけてきて超怖い。

 

 とにかくポスターのデザインが最高で、一目見て「これ行きたい!」という思いのまま試写会に応募しました。ただ私はちょっと舐めてました。まさかこんなに怖いなんて聞いてないよ。

 

 ホラー映画というのは、だいたいのものがホラー以外の要素を含んでいます。よくあるのだとコメディとか。怖いけどげらげら笑える映画って多いですよね、ファイナルデッドシリーズとか、最近だとキャビンとかはそうかなと思います。この映画も要所要所で笑えるシーンが出てきますが、それは緩急をつけるためで作品がコメディ色を持っているわけではありません。

 私がこの映画を見てまず思い出したのは、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」でした。キャリーは主役のシシー・スペイセクの外見もあり、不気味な雰囲気を持ついじめられっ子が実は超能力を持っていて、その力でいじめっ子たちを皆殺しにするホラー映画だというイメージが強いと思いますが、私にとっては青春映画です。

 イット・フォローズもキャリーも、一人の少女が女としての転換期を迎えたことで歯車が狂い始めるという点で共通していると思いました。キャリーは初潮を迎えたことで母親との関係、学校のいじめが悪化します。そしてイット・フォローズでは主人公が初体験を終えたその途端に、正体不明のそれの恐怖に追われるようになります。

 映画を見終わってからすぐに他の人の感想や映画ブログの記事を読んでみました。その中で多かったのはセックスで感染する"それ"はつまり性病のメタファーではないかというものです。確かに、そう言われるとそう見えてきます。でも、私はこの映画は若い女の子対して安易なセックスを諫める以外のなにかがあるような気がしました。

 ”それ”が何を示しているのか、もう一つ「死」のメタファーだという意見も目にしました。「死」はいつでもどこでも、ゆっくりと、でも確実に近づいてくる。逃げても逃げてもおいかけてくる、生きている物にとって絶対に逃れられないものです。

 そうかもしれないと思いつつ、でもそれではあまりにも直接的なのではないかとも思いました。それで色々と考えてみて、私なりに出した”それ”の正体は、主人公と同じくらいの年頃なら誰でも経験があることだと思いますが”正体不明の不安”です。

 自分だけが感じるのに自分でも正体が何なのかはっきり分からず、誰に話しても理解してもらえない、でも確実にすぐ側で口を開けていて油断すると飲み込まれてしまう不安。”それ”の姿がその時によって変わるのも、自分では不安の正体が掴めていないからではないかと思いました。

 逃げても逃げても、不安は追いかけてきます。解消するために色々な手を尽くし、一時は安心するけどでもまた新しい不安が襲ってくる。人によってなにに不安を感じるのかも違います。主人公はまだ社会的に大人になる前に体だけ大人の女へとなってしまったことに、強いてはセックスに不安を感じているから”それ”は淫らな女性だったり男の姿をしているのかなと思いました。

 とかまあ色々言いましたが、どうやら監督はメタファーとかそういんじゃないよ的な発言してるようなので、全部見た側の自己満でしたね。でも映画は見た人の経験とか考えてることによって感想や解釈が変わってくるものなのでいいんですよね。ホラー映画としても凄く怖いし、青春映画としても若い故の痛ましさとか、でも愛情溢れる描き方とか、見応えのある好きな映画でした。オススメ!

 

クリムゾン・ピーク/女は強い生き物です。

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クリムゾン・ピーク(Chrimson Peak)R15+

 監督:ギレルモ・デル・トロ

出演:トム・ヒドルストンミア・ワシコウスカジェシカ・チャステイン

製作:アメリカ/2015

時間:119分

 

 

 TOHOシネマズシャンテにて鑑賞。新作映画では今年初めての映画鑑賞になりました。公開日翌日だったからか、映画館を出るとぴあの出口調査の女性に声をかけられ「100点満点で何点でしたか?」と聞かれました。そんなの初めての体験だったので咄嗟に80点と答えたけど後々ゆっくり考えたらちょっと盛り過ぎた。

 

 【あらすじ】ミア・ワシコウスカ演じる小説家志望のお嬢様がちょっと胡散臭いトム・ヒドルストンと結婚して彼の実家に行ったらお化け屋敷だし小姑のジェシカ・チャステインは不気味で怖いし散々だった。

 

 デル・トロ関係だと「パンズ・ラビリンス」「永遠のこどもたち」「MAMA」あたりが特に好きです。パシフィック・リムはちょっと毛色が違いますが勿論好きです。

 今回のクリムゾン・ピークは「パンズ・ラビリンスよりも不気味でなく、永遠のこどもたちよりも悲しくなく、MAMAよりも怖くない」という印象でした。

 製作中から「脚本を読んだトムヒが怖いと言って泣いた」という噂を聞いていたのでどんなホラー映画だろうと思っていて、予告が出た段階で「あれ?怖そうじゃないぞ?」とちょっと首を傾げていたのですが、そもそも所謂ホラー映画ではないんですね。

 幽霊も怖いけど、それよりも人間の業とか愛憎が怖いって話なのかな。この映画でなにが一番怖いって「クリムゾン・ピークに気をつけろ…」とアグレッシブに助言してくる真っ黒なお母さんのお化けでも、屋敷にいるなんかドロドロしてて真っ赤な生理的にきもいお化けでもなく、現に目の前にいる人間なのですね。

 

※ここからネタバレ

 ジェシカ・チャステイン演じるお姉さんはもともと狂っていたのか、お母さんのせいで狂ったのか、弟を愛してしまったが故に狂ったのか、どれが先かは分からないけど、とにかくトムヒの弟が何をしたいのか分からなくてイライラする!

 最初は弟も姉を愛していて、二人だけの世界を守るために世間知らずのお嬢様を誘惑して殺して遺産だけいただいちゃお。という共通の目的で動いているならそれは怖いなって思ってたんです。でも途中からなんか弟の様子が変だなって感じ、そしたら結局は本当はもう殺したくないみたいなこと言い出すし、彼女が好きだけど姉から求められたら断れないってお前!お前ー!

 取り返しがつかないところまで行ってるのはお互い様なのに、自分は頭のおかしい姉の被害者ですみたいな顔してるトム・ヒドルストンには殺意以外なかったのですが、それは映画の中でさっぱり解消されました。

 いやまあ、あの状況で悪いけどもう愛していないとかみたいなこと言われたらそりゃ刺すっしょ。まさか顔を刺すとは思わなかったけど、スクリーンの前でジェシカ!もっといったれ!と思ったよ私は。

 結構なダメージを受けても階段を軽やかに駆けるジェシカ様にはもうお見事ですとしか言えない。トムヒの何倍も致命傷っぽいものをくらってもなおスコップを振り回す力を残してるミア・ワシコウスカも見てて楽しかったですね。足、折れてるんだよね?

 デル・トロの映画に共通しているのは「女は強い」ってことだな、とこの映画を見て改めて思いました。物理的に、強い。パシフィック・リムから来てるチャーリー・ハナムはあんなマッチョなのに眼科医っていうのが笑えるなと思ってたら、最後の方なんて助けに来たはずのミア・ワシコウスカに抱えられて歩いてるとか面白過ぎるでしょ。

 この女性の強さっていうのは、デル・トロの身近にそういう女性がいるのかなって思わせますね。もしくは、ある意味これも女性に対する幻想なのかもしれない。セクシーなシーンがどうもぼんやりしてるのとかも、そういうことなのかな。

 全体的には美術はそれはもう細部まで凝りまくってるし、衣装も全部かわいくて画面は始終見ていて飽きませんでした。今年最初の映画としては満足です。オススメ!

 映画の後に見たらほっこりしますね。

 

 

【まとめ】

 ストーリー:☆☆/キャラクター:☆☆☆/美術:☆☆☆/尻:☆☆☆☆