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この夏最大級の祭り「HiGH&LOW〜不良ファンタジーと隣合う現実〜」

 

 皆さんこんにちは、お久しぶりです。ハイロー充してますか?

 私と言えば、先週やっと汐留のHiGH&LOW BASEとかいう聖地を一人で訪れまして、そこで購入したMUGENのエンブレム入りTシャツを部屋着にして過ごす日々です。ついに私もMUGENを背負う女になりました。仲間を見捨てねぇ。

 HiGH&LOWについてのブログ記事もこれで第四弾となりました。第一弾は初回鑑賞時の私のテンション、第二回は龍也と琥珀、九十九の関係性。第三弾は番外編として九十九の歌うMariaについて。そして今回はちょっと話を戻してHiGH&LOWの世界の構造について、と言うと大袈裟ですが、そういうテーマで私が普段から寝る前にぼうっと考えていたことを書きたいと思います。

 最終的には今回も琥珀と九十九の話になることを最初に断っておきます。HiGH&LOWは琥珀に始まり、琥珀と九十九に終わる。そういう解釈の人間が書いていることだと思ってご容赦下さい。

 

 HiGH&LOWという作品は、ジャンルとしては古くから漫画や映画でも親しまれている「不良ファンタジー」ものである。この世界には基本的に「不良」と「その延長線上のやくざ」を主軸に世界が回っている。それ以外の一般人は主人公たちの身近な人物以外は徹底的にモブでしかない。

 HiGH&LOWで不良ファンタジーの世界観を構成する主な面子は「一人のカリスマに集う有象無象(MUGEN)」「過剰な地元愛を持つ自警団(山王連合会)」「繁華街の取り締まり役(ラスカルズ)」「偏差値よりも喧嘩の強さを重視する高校(鬼邪高校)」「保守的で一歩引いた立場(RUDEBOYS)」「やくざ崩れ(達磨一家)」「誰もがその強さを認める最強キャラ(雨宮兄弟)」である。

 要素だけを取り出すと不良ものではよく見かける要素で構成されているのが分かる。そして、今挙げたチームはあくまでも「不良ファンタジー」の中で成り立っているチームである。ではその「不良ファンタジー」とは何か。それは「大人になる前の青年」が「人の死に直結しない暴力」の中で生きる世界である。

 「不良ファンタジー」はあくまでもファンタジーなので、登場するキャラクターたちのリアルな生活背景などは最低限しか描かれない。どんな家庭で育ったのか、生活費はどうやって捻出しているのかなど、現実的な部分は大抵謎に包まれている。また、この世界ではどれだけ人を殴っても基本的に死ぬことはない。彼らが行うのは各々が持つ大切なものを守るための「喧嘩」であり、それは「暴力」とイコールではない。このファンタジー世界ではそれが最大の前提となっている。彼らは自らの肉体だけを使った殴り合いのみを正義としており、そこにナイフや銃などを持ち出すことはあってはならない。もし持ち出したのなら、それは彼らと生きる世界が違うという証明になる。

 不良ファンタジーに生きる彼らの拳は何かを「守る」ために振うものであって、誰かを傷つける、何かを「奪う」ための拳は悪である。それはドラマから徹底的に描かれている。シーズン1で達磨一家の日向が悪役のように登場したのは、その頃の日向が「喧嘩」ではなく「暴力」を行っていたからだ。

 そして、そんな彼らと敵対する「やくざ(九龍・家村会)」は正に不良ファンタジーの根底を揺るがす「大人」であり「殺し・暴力」の象徴である。両者は同じ作品内に登場しているが、生きている世界は全く違う。つまり、HiGH&LOWはファンタジー世界を破壊しようとしてくる大人たちから、自分たちの理想郷を守ろうとする青年たちの物語としても見ることができる。

 

 話を劇場版へと映して考えてみる。HiGH&LOWで最初に自分たちの揺るぎないファンタジー世界を作り上げたのは龍也と琥珀である。「この時を永遠のものに」という思いを込めて二人は二人だけで成立する世界、MUGENを作った。だが、彼らのファンタジーは「龍也の死」という目を背けることのできない圧倒的な現実の前に崩れ去ることになる。ファンタジーを生きる彼らのすぐ側で現実は口を開けて待っている。HiGH&LOWの世界ではファンタジーと現実は裏表ではなく横並びなのである。

 MUGENの消滅はファンタジーが現実に飲み込まれたということでもある。龍也はMUGENから抜けるという道を選んだことで自ら「大人」になった。そして九十九は生死の境を彷徨ったことで強制的に現実の世界へ引きずり込まれた。つまり、劇場版では三人の中で琥珀だけがファンタジーの世界に取り残された状態となった。

 皮肉にも、最初にファンタジー世界を作り上げた琥珀が劇場版では現実の力によってファンタジーを崩壊するべく乗り込んで来る悪役となる。だが、琥珀は現実に飲み込まれたわけではなく自分の作った世界と共に心中する覚悟を持っていた。自分から龍也を奪った現実の崩壊を見届けることができればそれで満足だと思っていた。九十九はその全てを知り、琥珀の命を守るというそれだけの目的で側にいることを決めた。

 琥珀は龍也とMUGENがまだ存在する世界に生きていたが、劇場版の最後でもう自分やMUGENは過去のものであるということに気づく。コブラやヤマトは自分たちで新たにファンタジー世界を生み出してそこで生きている。それでは自分がこれから生きていく場所はどこにあるのか。そんな琥珀に手を差し伸べたのは一足早く不良ファンタジーから足を洗った九十九だった。

 私は今回の劇場版は琥珀の視点から見るとファンタジーの世界から卒業することの難しさを描いたものだと思っている。だが、琥珀は一人ではない。九十九の手を取って立ち上がった琥珀は、スクリーンからフレームアウトし、その先に続く現実の世界をMUGENの琥珀としてではなく、三浦龍臣という一人の男として九十九と共に生きていくことになる。

 

 自己満足でしかない話にここまでお付き合い頂きありがとうございました。琥珀と九十九はあくまでもこの映画で卒業という形をとって、次回の映画には名前だけ出てくれば満足だと思っているのですが、実際どうなるか気になるところです。出て来るとしてもちゃんと大人になっていると信じています。

 

※最後に補足として。

 劇場版のエンドロールでは、山王連合会は現実世界の観客に背を向けて商店街へ帰って行き、ラスカルズやRUDEBOYS、達磨一家もそれぞれ自分たちが戻るべき場所へと戻っている。だが、唯一鬼邪高校の村山だけが看板を取り戻し喜んでいる仲間たちに背を向け、一人でこちら側へ歩いて来るという演出がされている。ストーリーの中でも何度か「卒業」という言葉を出していたが、それが遠くないということを示しているのか、気になるところであった。